明治末期の佃地区
 明治末期の佃島は現在のようなスッキリとした”芋”の形をした一つの島ではなく、幾つかの小さな島が寄せ集まってできた”島の集合体”であったことがわかる。神崎川の支流が細かく島と島の間を流れていた。これらの小さな島々のほとんどは人の居住や農耕に適さない、湿地帯や沼地であったろうと思われる。現在の国道2号線の「神崎大橋」を渡った所は、「蒲島(がもじま)」と呼ばれ、島が一体化した戦後も、この「蒲島(がもじま)」という地名は長く残っていた。阪神電車の駅名は当時「佃(つくだ)」で、現在の「千船」駅とほぼ同じ位置にあった。当時は島の大半が田や畑で、人が居住していた地域は島の先端部の東半分だけに集中していた。現在の佃1丁目と2丁目にあたる地域である。
下の地図上では名前こそないが、「田蓑神社」を表す神社の地図記号が書かれている。その「田蓑神社」の北方向100メートルには左門殿川を尼崎方面へ渡る「渡し船」あった。また、左門殿川の流れも複雑で、小さな中州や島が点在していたことがわかる。
 
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