明治末期の姫島地区
 淀川右岸に接する「姫島」は明治時代「稗嶋村(ひえじまむら)」と呼ばれていて、大阪市内から兵庫県尼崎方面へ通じる陸上交通の中継地であった。淀川左岸の「傳法町」(現此花区伝法)から田圃の中の道を抜けると淀川の堤に出る。河川敷に降りると船着き場があって、これが地図にある「稗嶋ノ渡」である。渡し船で対岸へわたり、堤を超えると「稗嶋村」である。いつの時期に地名が「姫島」と変わったのかは知らないが、すでにこのとき「姫島神社」は存在していた。村の中心を西へ向かって街道が続く。これが「梅田街道」で、「大和田」の村の中へ続く道。阪神電車の駅は淀川左岸に「新淀川」駅、(現在は「淀川」駅)淀川右岸に「稗島」駅となっている。現在の「姫島」駅はこれより150メートルほど西寄りの位置になっている。淀川を渡る阪神電車の陸橋の北東上流に「西成大橋」が架かっている。これが現在の「国道2号線」の「淀川大橋」。ただ、これより西への「2号線」はこの当時まだ存在しない。「西成大橋」を渡って来る道は、堤防沿いを下って「稗嶋村」に入るルートと、そのまま「野里」へ向かう道とに分かれる。この「野里」へ向かう道がのちの「国道2号線」のルーツとなるようである。
 「稗島」の駅名も歌われている「阪神電車唱歌」Youtubeより
 この「阪神電車唱歌」の作詞者「大和田建樹(おおわだたけき)」は安政4年(1857)伊予宇和島藩の藩士の家に生まれ、明治時代を通じて教育者として生涯をおくる傍ら多くの作詞でも名を残した。あの有名な『汽笛一声新橋を〜』ではじまる「鉄道唱歌」も彼の作詞である。
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